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鮮やかな色は つかの間の出来事
やがて色あせ 朽ちてゆっくりと土に還る
紅葉の名所ではない ここは街路樹の根元あたり
ここには観光地の喧噪も無ければ 見る人もいない

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旅は非日常
今回のスペインでは 見るもの 聞くもの 食べるもの
全てが新鮮に感じ カタイ頭にはいい刺激になりました
いつもながら自己満足の写真におつき合い頂いてアリガトウゴザイマス
関空に着き バスを待っている間に スペインの残像がよみがえり
旅での数日間とバスを待つ我が身との間に大きな違和感を覚えたりして
時差ボケを感じながら 最後のバスに乗り込んだ次第です




今回の旅ではあまりにも多くのショット数なので
9月より今日までにアップしたものはその一部となりました
その他のものはまたの機会にアーカイブとしてアップ致します
先日 NHK総合テレビSONGS井上陽水第三夜を見た
還暦を過ぎた陽水はあいかわらず本心をはぐらかし サングラスの向こうで笑ってる
フアンを惹きつける不思議な魅力は今も健在だ
それにしても 還暦を過ぎたミュージシャンをNHKが4週連続で放送するなんて
陽水がすごいのか はたまたNHKがすごいのか
12月2日の第四夜が楽しみだ
窓の外はロンドン
陽が沈む
雲海のかなたはヨーロッパ
東へ ひたすら東へ
ドバイカラノカゼハ イツマデフクノカ
ジギョウシワケガオワッテ カンリョウハナニヲガクシュウシタノカ
アサショウリュウガニハイシテ ホンニンノダメージハイカホドカ
コウハク46カイメノキタジマサブロウヲ イツダレガオロスノカ
セイネンオイヤスク ガクナリガタシ





ここのところパソコンのデスクトップを この写真が飾っている
なんと言っても 建物のスプレーでの落書きがいい味を出してると思う
そんな風に表現すると 不謹慎かもしれないが・・・

ちょっと時間を巻き戻してアップしてみた
私のお気に入り
今回の旅で利用した関空と成田には無い活気が ここヒースローには充満している
ここでは成田羽田や関空伊丹神戸のような問題があるのかないのか
そんなことはどうでもよい 成田関空には無くてここには有るもの
それは人と建物とそこにある雑多なものが醸し出す
居心地の良さ





ロンドン ヒースロー空港まであと数分
上空からの眺めで気がつくのは 緑が多いこと
空港から出れないは ちょつと残念




明日は空港でのスナップです
離陸直後 静かな海が見える
バルセロナからロンドンヒースローを経由し 日本へ向かう
カメラ小僧は 機内でもカメラを離しません
最終の関空まで まだまだ撮り続けます

ロールスロイスがジェットエンジンを製造していたとは知らなかった

窓にはなんと寒さで水分が結晶になってる

ブリティッシュ ブルー

なんと並行している飛んでいるよ

寄るのはここまでが限界だね
この国に来て 駆け足ながら多くの 建築 美術 工芸 料理 等を見ることができた
彼らの手掛けるものに 情熱 創造性 遊び心などを垣間見ることで
スペインに対し持っていたイメージは 来る前と今とでは大きく違ったものになっている
9月26日からアップを続けてきたこの旅も いよいよ終りに近づき
残すは帰り便のバルセロナ発 ロンドンヒースロー経由で 成田経由の関空着となる
今日はバスの窓から見たものを 少し巻き戻してアツプしてみた





先日はフラメンコをちょっとだけ 今日は闘牛をちょっとだけ




スペイン等における闘牛
ポルトガル闘牛の一場面牛と闘牛士が戦う競技は、スペインやポルトガル、フランス、ラテンアメリカなどで行われており、特にスペインでは闘牛は国技とされ、盛んである。しかし近年、闘牛士が牛を槍や剣で刺していき、死に至らしめるのを見せるということに対して動物愛護的な観点からの批判が強まっている。
スペイン闘牛では、「マタドール」と呼ばれる闘牛士が活躍するが、マタドールは正闘牛士のことであり、闘牛士全体の1割しかいない狭き門である。残りの9割は准闘牛士で、まともに活躍できるのはさらにその1割しかいない。
スペインでの衰退
2000年代に入り、動物愛護団体からの強い批判や闘牛への人気不振を受け観客数が激減。特に2007年8月、国営放送が闘牛の生放送を中止してからの衰退ぶりは激しい。バルセロナでは2008年からの闘牛禁止が決定、2007年にはバルセロナ唯一の闘牛場の閉鎖もされている。
現在ではかつての闘牛に代わって、向かってくる牛を曲芸師がジャンプして躱すなど、牛を傷つけない曲芸が行われている。
フリー百科事典 ウィキペディアより
スペインとポルトガルから成る イベリア半島
今回 訪ねた所はこのスペインのごく一部に過ぎない
広くスペインを見ないままに スペインを語ることはよそう
また来る日には また今回とは違った目で見えることを期待して





バルセロナの空港は 床が磨き上げられた綺麗な所
映り込みの大好きなカメラ小僧は 思わず床を撮ってしまった
異邦人の目には 何でも面白く映る
打ち鳴らされる手拍子は
寸分の狂いもなくリズムを刻み
床を踏み鳴らす硬く重い音は
心臓の鼓動とつながっている
日本舞踊とは対極を成すフラメンコ
どこか民族の血と汗と涙を感じる


フラメンコの歴史には不明な点も多い。その祖型の成立は18世紀末と考えられているが、この時期にはまだフラメンコという名称は与えられていなかった。
この芸能の成立に大きな影響を与えたのはヒターノといわゆるモーロ人(ムーア人)、すなわちイベリア半島や北アフリカに住んでいたイスラム教徒という、2つのエスニック・グループであった。この2つのエスニック・グループの協働が発生した理由として現在考えられているのは、イベリア半島におけるモリスコ(改宗イスラム教徒)追放令である。1499年のカトリック両王によるモーロ人追放後も一部のイスラム教徒はキリスト教徒に改宗してイベリア半島に留まったが、1609年に改めてモリスコの追放令が出される。しかしモリスコの中にはヒターノのコミュニティに潜伏してなおもイベリア半島に留まる者が少なくなかった。この時期にアンダルシアのヒターノのコミュニティがモリスコの歌舞音曲を大胆に取り入れ、その結果として生まれたのが、現在フラメンコと呼ばれる芸能なのである。
フラメンコを生み出したヒターノのコミュニティにも低地(グラナダなど)のものと高地(ロンダなど)のものがあり、前者はヒターノの音楽であるロマンセの要素を、後者はファンダンゴの要素をフラメンコにもたらしたと考えられている。フラメンコ(フランドル地方の音楽という意味)という語が、今日知られる意味でのフラメンコに対して用いられるようになった時期は、文献から判断する限り19世紀半ばのことである。
フリー百科事典 ウィキペディアより
乾いた空気と 明るい陽射し
街であれ 野山であれ
スペインはどこも似ている





トリトメノナイシャシン
コレモスペインノヒトコマニチガイナイ
シャシンコゾウハカンジテシャッターヲキリマス
ケッシテカンガエマセン
トツタアトデボツニスルモノモオオクアリマスガ
ソンナコトハキニシテイマセン
タダシャッターヲキルノミデス



月曜日は嫌いだ
休み明けで 頭と体がついていけない
なのに 容赦なく仕事がやってくる
こんな日には 目に優しい色が見たい
グリーン そして ブルー

地平線は動かず 手前の景色だけが飛んでいく

バスの窓は 景色を絶えず入れ替えている
昨日の続きです
多く人で賑わう通りには 所々にイスが並んでいて
年配の旅行者らしき人達が腰かけています
大ぶりのイスなので座り心地は良さそうです
通りにはほんとうにいろんなお店が並んでいます
中にはペット屋さんもあってまるで小動物のデパートでした





カワイイのか 怪しいのか
はたまた ここで 何をしているのか
にぎやかな 通りには にぎやかな人達
市民の共用自転車には ちょっと うらやましい



私にとっての適正露出
それは見たものが一番印象深く見える
光の当たり方
時として白くとんでいたり
はたまた黒くつぶれていたり
でも そんなことは一切気にしない 気にしない
気に し始めると
写真が楽しいものでなくなる
なので 私の周りには
つぶしたり とばしたり の写真が
ゴロゴロころがっていて
よく それに けつまづいたりして

ある本に こんなくだりがあった
世の中は、一冊の本のようなものだ。
今、私が君に読んでもらいたいのは、この「書物」だ。
この書物から得られる知識は、
今まで出版された本すべてを合わせた知識より、
はるかに役にたつ。
だから、立派な人々の集まりがある時には、
どんな優れた本も脇へおいて出かけるがいい。
その方が、何倍もの勉強になる。
昔も そして今も 同じだと思う 人あり
いやいや 今は昔とは違うんだよ と言う人あり
いずれにしても 本は生産され続ける



ある本で読んだ
繰り返して言うが、人は、つき合う相手と同じレベルまで、上がりもするし
下がりもする。君は、つき合う相手によって判断されるのだ。
相手=被写体
窓に映る景色から 逃れることができないでいる 私



建物の向こうは 川のような人の流れ
そしてこちらは ひっそりと そして静かに
建物をはさんでまるで違う 面白いものだ

色と形
これで3回目
止めを刺すにはインパクトに欠ける
と言うか 目が慣れてきたのか
明日からはまた異なったスペインをお見せします





ツアーも終わりに近づいたある日
ここはバルセロナのサン・ジョセップ市場
溢れんばかりの 食 食 食
「色と形」を楽しんで下さい




バスは音も無く近づいて
わたしの横をすり抜ける
そのバスの大きな窓には
周りの景色が映り込んでいる
景色はたえず動いていて
いろんな街かどを映し出す
カメラとバスと街かどと
位置と角度が織りなす万華鏡
偶然にして映り込んだ景色に乾杯



バスの窓から見えるもの
明るい陽射しに 街ゆく人達の笑顔
もっとゆっくり走ってよ
飛んでゆく景色がもったいない






机の上には ガウディのカラフルなトカゲがいます
手のひらに乗るサイズで 今日も動かずにじっとしています
旅先ではお土産を買わない私が つい買ってしまいました
エサ代のいらないペツトで 私のお気に入りのひとつです






ガウディはこれで おしまい
100年を経過したデザイン
100年を超えても新鮮だ
今 時代がガウディに追いついた
そんな捉えかたもオモシロイ







グエル公園(カタルーニャ語:Parc Güell, 英語:Park Guell)は、スペインのバルセロナにある公園で、バルセロナの街が一望できる。1984年にユネスコの世界遺産に登録された。アントニ・ガウディの作品群の1つである。施主のエウゼビ・グエイ伯爵(スペイン語読みではグエルとなる)とアントニ・ガウディの夢が作り上げた分譲住宅で、1900年から1914年の間に建造された。彼らが最も傾注していた芸術はリヒャルト・ワーグナーの「楽劇」で、ガウディは同じ芸術センスを持つグエル伯爵の下で、自然と調和を目指した総合芸術を作り上げようとした。この頃、バルセロナでは工業化が急速に進んでいた。それに対してガウディとグエルはこの場所に、人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる、新しい住宅地を作ろうとした。しかし、ふたりの進みすぎた発想と自然の中で暮らす価値観は、当時理解されなかった。
広場、道路などのインフラが作られ、60軒が計画されていたが買い手がつかず、結局売れたのは2軒で、買い手はガウディ本人とグエイ伯爵だけであったという。
グエイ伯爵の没後に工事は中断し、市の公園として寄付される。現在はガウディが一時住んだこともある家が、ガウディ記念館として公開されている。中にはガウディがデザインした家具なども集められて展示されている。
フリー百科事典 ウィキペディアより
真似のできない独創性 ここに極めリ
古今東西 幾多の建築家ありと言えども
比類なき才能 故に歴史に名を残す
「美しい形は構造的に安定している
構造は自然から学ばなければならない」
この発想に魅かれる









アントニ・ガウディ(カタルーニャ語:Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet, 1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリアをはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録されている。スペイン語(カスティーリャ語)表記では、アントニオ・ガウディ(Antonio Plácido Guillermo Gaudí y Cornet)
設計手法
彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。その設計手法は独自の構造力学的合理性と物語性に満ちた装飾の二つの側面より成立する。装飾は形式的なものに留まらず、植物・動物・怪物・人間などをリアルに表現した。「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と、ガウディは自然の中に最高の形があると信じていた。その背景には幼い頃、バルセロナ郊外の村で過ごし、道端の草花や小さな生き物たちと触れ合った体験からきている。
ガウディの自然への賛美がもっとも顕著に表れた作品が、コロニア・グエル教会地下聖堂のガウディ設計部分である。傾斜した柱や壁、荒削りの石、更に光と影の目くるめく色彩が作り出す洞窟のような空間になっている。この柱と壁の傾斜を設計するのに数字や方程式を一切使わず、ガウディは10年の歳月をかけて実験をした。その実験装置が「逆さ吊り模型」で紐と重りだけとなっている。網状の糸に重りを数個取り付け、その網の描く形態を上下反転したものが、垂直加重に対する自然で丈夫な構造形態だと、ガウディは考えた。建設中に建物が崩れるのでは?と疑う職人たちに対して、自ら足場を取り除き、構造の安全を証明した。
生前に描かれた設計図はスペイン内戦で焼失している。[11]彼は、設計段階で模型を重要視し、設計図をあまり描かなかった。設計図は役所に届ける必要最小限のものを描いたのみである。そのため彼の設計図はあまり残らず、また焼失を免れた数少ない資料を手がかりに、現在のサグラダ・ファミリアの工事は進められている。
フリー百科事典 ウィキペディアより